特別読み物・コラム
 
2005年度文化講演会「スポーツが創るまちづくり・人づくり」
山本浩NHK解説委員講演会(first half)
【スポーツは世界現象】
いまスポーツは世界的に非常に巨大な存在となり、世界現象とまで言われています。現象とは、「人間が作り、そして残していく形態」いう意味であり、「スポーツは地球にとってかけがえのないものである」という理解からこの言葉が生まれました。
その現象を通してスポーツに対する注目度が高くなってきました。メディアについては、のべ人数で地球の人口の何倍もの人達がテレビやインターネットでW杯やオリンピックなどのスポーツを見る時代になりました。経済の世界でも、スポーツイベントの高額なスポンサー料を企業が躊躇しないで支払う時代になりました。
その注目度の高まりに応じて、スポーツに対する評価が上がってきました。国家あるいは地域がスポーツ選手の国際的な活躍に価値を見出す時代になりました。また、スポーツが健康面に及ぼす影響については、医学・生理学・教育の分野などで広く論じられています。さらには、スポーツが人間形成に果たす役割が一昔前とは比較にならないくらい大きくなり、それに加えて経済的な魅力(高い報酬など)も高まってきました。

【スポーツの要素】
スポーツには様々な要素が含まれています。例えば、「戦う」という要素で、選手やクラブという小さなレベルから国家という大きなレベルまでの戦いがあります。また、「はぐくむ」という要素があり、これにはスポーツを通じて「教える」あるいは「教わる」という行為が含まれます。そして、スポーツを「する」あるいは「見る」ことによって「楽しむ」という要素があります。さらには、「獲得する」という要素があり、この場合に獲得するのは健康や名声だけではなく、金銭的・経済的なものも含まれます。これらの要素は全てスポーツの回りで行われることであり、すべて動詞で表現できる行為です。

【スポーツと運動の違い】
スポーツは「運動」と「スポーツ」に分けられます。「運動」は英語のexerciseで、「体を動かす」という意味です。健康や爽快感を得るための運動がこれに該当します。私の場合、自転車を使った1日30分間の運動を2年以上続けていますが、もちろん世界一や日本代表を目指しているわけではありません(笑)。「時速65キロ」のような目標もなく、自分の限界への挑戦と好奇心からこの運動を行っています。
余談になりますが、私の自転車には自分の体調に合わせて心拍数を固定できるコントローラーが付いています。しかし、この自転車を購入された方の多くが途中で挫折してしまうようで、最近そのメーカーはホームページを閉鎖してしまいました。一昔前に買ったぶらさがり健康器も、買った当初こそ私がぶらさがっていましたが、そのうち家内が布団を干すようになり(笑)、今では物置に片付けられています。このように家庭内で使われる健康器具は長続きしないものが多いと思います。
一方、「スポーツ」は「戦う」というイメージで理解されているものです。そして、「勝利が欲しい」、「優越感に浸りたい」、「自分を完成させたい」などの動機で行われます。この場合、相手と戦うだけでなく、自分の記録や自分の限界と戦うケースも含まれます。

【遊びを通じて学んだこと】
これまでの日本のスポーツには、狭い土地・少ないコミュニケーション・強い気持ちなどの要素が深い影響を及ぼしてきました。もちろん地域差や時代差もあるかも知れませんが、ここで遊びの視点からそれらの要素について考えてみます。
遊びの例として、まずは草サッカーを取り上げます。草サッカーに必要なのはボールとゴールですが、ボールは丸いボールである必要はなく、物を詰めた靴下や空き缶などでも構いませんでした。そして、ボールとゴールがあれば何とかなるのが草サッカーですが、それはルールがある時に限りました。例えば、「ここから外にボールが出たらアウトオブプレーだ」のようなルールが必要でした。
次に三角ベースについて考えます。三角ベースをやる際にもボールが必要ですが、この場合も潰れたピンポン球や妹の鞠でも構いませんでした。またベースも必要ですが、白くてきちんとしたものである必要はなく、ちぎった新聞紙、集めた落葉、一本の立木でも代用できました。さらにバットも必要ですが、私が子供の頃は右ひじをバット代わりにしたこともありました。もちろん三角ベースでもルールが必要で、9人の選手が集まらない場合は、自分たちで特別ルールを決めたこともありました。
このように私達は遊びを通じてルールの重要性を学びました。ルールが正当性を持つことを無意識のうちに理解し、例えば相手チームに小さい女の子がいる場合には、話し合いで特別ルールを決めたことがありました。また、遊びを通じてキャプテンの必要性や勝ち負けを受け入れることを学びました。さらには、参加の自由を無意識のうちに学び、体調が悪い場合や塾がある場合は遊びに参加しないこともありました。

【現代の子供が置かれている状況】
これに対し、最近では指導者と親が全てを決めてしまうことが多くなり、「子供が何もしなくてもいい時代」になりました。例えば、キャプテンは指導者が決めてしまいます。また、ボールや競技場の大きさ・競技時間などのルールはあらかじめ決まっています。そして審判が決まっており、子供達がルール違反かどうかを話し合う必要はありません。ですから、基本的に子供達の間で問題が起こらないシステムになっています。その是非はともかく、このような現実をポジティブに考えて先に活かすことが大切です。

【スポーツに必要なものは何か?】
ここで「スポーツに必要なものが何か」について考えてみたいと思います。まず1つ目は技術です。技術はあらゆるスポーツに要求されることで、誰かが教える(教わる)際に最初に教える(教わる)ものです。2つ目はコミュニケーションです。スポーツでは情報や気持ちを他人とやり取りすることが大事であり、コミュニケーションは必要不可欠な要素です。3つ目は気持ちで、ハングリー精神などに代表されるものです。コミュニケーションと気持ちは、技術と違って教えることが難しいのが特徴です。以下で、コミュニケーションと気持ちについて詳しく述べます。

【コミュニケーションの減少】
コミュニケーションの能力は非常に重要です。本来その能力は日常生活の中で獲得するものですが、最近その学習の機会が減ってきました。
家庭を例に取ると、昔と比較して敬語を使う機会が減りました。会場の皆様に質問ですが、「普段寝食を共にしていない人(例えば、親戚や友達など)がこの2週間に夕食を食べに来た」という方はどのぐらいいらっしゃいますか。3人いらっしゃるようですが、札幌でも大分でも東京でも同様に少数だったので、全国的にその数が減っていると言えます。私が子供の頃は父親が家に同僚を呼んで宴会を行うことがよくありましたが、その宴席では必ずお客様に挨拶をさせられ、さらにはお客様のお相手をすることもありました。昔はこのような経験を通じて敬語や第三者との接し方を学び、コミュニケーション能力を高めることができましたが、最近ではそのような来客が減っていると思います。また、食事については、「子供が先に一人で食べる」、「お父さん・お母さんは仕事から帰って一人で食べる」という食事習慣が増えています。この背景には皆が多忙になったことや24時間化した生活パターンがありますが、いずれにしろ家族のコミュニケーションの時間が減っています。部屋についても、家族同士が干渉しないような構造が増えており、それがコミュニケーションの減少につながっています。
会社における人間関係(先輩−後輩や上司−部下の関係)は、私がNHKに入った昭和51年(1976年)と比べてかなり変わりました。それに伴い、コミュニケーションの形態にも変化が生じ、それは敬語の使い方だけではなく、行動や判断にも現れています。例えば、昔は上司と一緒に食事をする際、上司や先輩が注文した後に「僕もそれでいいです」と言って同じものを注文しましたが、最近ではそれぞれが食べたいものを注文するようになりました。
地域でのコミュニケーションについては、例えば島根県のある町の場合、「各家庭の子供の数は多いが、町全体の世帯数が減ったために全体としては人口が減少し、その結果としてお祭りや地域の行事が続けられなくなった」というお話を伺いました。また、近所付き合いについても、「マンションの階段が1つ違うと、誰が住んでいるのかわからない」ということが当たり前の地域も少なくありません。このように、地域でのコミュニケーションの機会も減ってきました。

【教育の難しさ】
コミュニケーションをする際に大事なのが「話す」ことですが、その教育は簡単ではありません。「読む」ことや「書く」ことは全員で一斉に行うことができますが、「話す」ことは全員が同時にやると収拾がつかなくなるため、一人ずつ話をさせる必要があります。しかも、それを限られた時間で行わなくてはなりません。CD・MD・ハードディスクなどのメディアに自分の言葉を録音し、第三者にチェックしてもらう学習法もありますが、これは非常に時間がかかる方法です。私の場合、全国のNHK各放送局からサッカーのビデオが送られてくることがありますが、1つの試合を見るのに2時間、それにコメントを入れるのに約6時間かかります。ですから、全国からテープが送られてくると、毎日見ても一ヶ月以上かかってしまいます。このようにメディアを用いた学習や指導には限界があります。
また、間違った敬語が日常的に使われているため、教育や指導がさらに難しくなっています。例えば、私の家のお風呂には温度調節のコンピューターが付いていますが、そのコンピューターが発する言葉は文法的に間違っています。また、デパートに行くと、「お持ち帰りできます」という言葉をよく耳にします。正しくは「お持ち帰り頂けます」ですが、繰り返し聞いているうちに、「お持ち帰りできます」が正しいと思い込む可能性があります。その他、「とんでもありません」や「とんでもございません」は間違いで、「とんでもないことでございます」が正しい使い方です。このように誤った敬語が氾濫しているため、学校の先生や指導する側が戸惑いを感じています。

【話す機会の減少】
先ほどもお話しましたように、話す機会が減少傾向にあります。例えば、スーパーやコンビニに行っても店員と会話をすることはありません。コンビニの店員に、「ずいぶん痩せましたね。どうかしましたか?」などと声をかけたら、非常ベルを押されるでしょう(笑)。私が子供の頃は5円を握りしめて駄菓子屋に通いましたが、そこのおばあちゃんは世間話をしているうちに10円のアイスクリームをくれることがありました。ときには「スリーベースヒット」や「ホームラン」を当てることもあり(ヒット4本でアイスが1本貰える)、当時はそのような喜びを求めて会話をするのが当たり前でした。ところが、コンビニで必要な言葉は、「レシート要りますか?」、「箸は何人前ですか?」、「チンしますか?」の3つだけです。自動販売機に至っては全く会話が不要で、缶コーヒーを飲みたい時は、お金を入れてボタンを押すだけで済んでしまいます。また、電車の改札の多くが自動改札になり、何かトラブルがあったときでも、「駅係員までお知らせ下さい」しか話しません。私は昔岐阜県の名鉄の駅近くに住んでいましたが、改札の駅員さんは良く知っている人でした。たまに帰省すると、「浩、大きくなったな」と声を掛けられることがありましたが、自動改札の登場でそのような会話がなくなってしまいました。このように、身の回りの至るところで話をする機会が減少し、それがコミュニケーションにかなりの影響を及ぼしています。
メール・チャット・インターネット・携帯電話などの登場による自由時間の過ごし方の変化もコミュニケーションに大きい影響を与えています。この会場にはNTTドコモの方がいらっしゃるそうですが、「メールは全国的に一回300円で、正しい日本語を使った場合は1回100円とする。通話は一通話10円で、正しい日本語の場合は3円とする」としてみてはいかがでしょうか?そうすれば電車やバスの中で携帯メールをやる人が激減し、みんな一生懸命日本語を覚えるようになり、日本のコミュニケーション社会に非常に大きな変化を与えるでしょう。ただし、電話関係の会社に大きな負債を残すことになるので、導入には注意が必要ですが…(笑)。

【スポーツに必要なもの:ハングリー精神】
スポーツに欠かせない要素の2つ目は気持ちで、別の言葉で言うとハングリー精神です。その要素としては、「1つのことに打ち込む集中力」・「逆境から復活する力」・「生きる強さ」などが挙げられます。ハングリー精神はお金や富に対する欲望だけに由来するものではありません。例えば、オリンピックで金メダルをいくつも獲得したカール・ルイスはアメリカ南部の中流の家庭で生まれ、週末に綺麗な身なりで教会に行くような生活をしていました。ですから、彼のハングリー精神は反骨心のような「負けない気持ち」に由来していたのだと思います。
コミュニケーションと同様にハングリー精神も教えるのが簡単ではありません。例えば、スポーツの世界では「集中しろ」とよく言われますが、その具体的な方法は教えてくれません。また、「ドンマイ」という言葉もよく聞きますが、「ドンマイだからどうすれば良いのか?」については教えてくれないケースが多いようです。

【生理的限界と心理的限界】
今日ここで一番強調したいことは、「スポーツには生理的限界と心理的限界がある」ということです。スポーツを少し勉強した方ならご存じと思いますが、人間の体には「これ以上やったら体が壊れてしまう」という限界があり、これを生理的限界と言います。一方、心理的限界は「これ以上できない」と感じる限界であり、一般に生理的限界の70〜80%と言われています。概ねそのくらいのところでストッパーがかかり、体が壊れないような仕組みになっています。
このストッパーが外れてしまう場所(舞台)があります。例えば、高校球児は甲子園で心理的限界を超えてプレーすることがよくあります。その背景には、甲子園に出場することの難しさ・大きな舞台(スタジアム)・大会の伝統・スタンドの大声援・メディアの関心の高さなどが挙げられます。序盤に飛ばしすぎるために終盤でガス欠を起こし、8回や9回に大逆転が起こるゲームもありますし、それとは逆に普段の練習では出来ないような超ファインプレーが生まれることもあります。「甲子園には魔物が棲む」と言われる所以です。
甲子園で心理的限界が外れてしまうのは、高校野球の練習方法にも原因があるかもしれません。野球は1つのプレー(例えば打撃)がほんの数秒で終わってしまうので、運動学の世界ではスプリンター(短距離選手)のスポーツと言われています。ピッチャーには投球を繰り返す持久力が求められますが、それでも今の時代は100球前後までしか投げません。そのため、現代ではアメリカを中心に「野球に持久的なトレーニングは不要」という考え方が主流になっています。ところが、日本の高校野球では今でも1000本ノックのような練習が行われており、日常的に心理的な限界を越えた状況下で練習が行われているのかもしれません。
心理的な限界を超えてしまう舞台は高校野球だけに限らず、オリンピックやW杯のような大きな大会も該当します。さらには、新潟スタジアムにも同じことが当てはまります。スタジアムに詰め掛けた多くのサポーターが応援することにより、選手が心理的限界を超えたプレーをすることが出来ます。今後、他チームの選手が「新潟スタジアムには魔物が棲む」と感じる時代がすぐそこに来ていると思います。

【W杯に向けたドイツの取り組み:ドイツ協会の試み】
今回は「まちづくり」がテーマなので、最後にW杯を2006年に控えたドイツの状況をお話したいと思います。
ドイツのサッカー協会は、2002年夏から「後継者コンセプト」と呼ばれる若年層の強化プロジェクトを始めました。国内に390カ所の強化の拠点を作り、そこでドイツ協会のライセンスを持った指導者が才能ある子供達に指導を行っています。
このようなシステムが作られた背景にはドイツサッカーの低迷があります。その原因の一つとして、「小さいときに選手の才能を見出せなかった(将来の才能を見逃していた)」という点が挙げられ、実際に現ドイツA代表の選手の中で若い世代の代表経験者は5割に満たない状況です。その反省から、現在では「才能とやる気のある子供は全て育てる」という方針で育成が行われています。また、1990年以降の社会情勢の変化(他民族のドイツへの移住)も育成プログラムに大きな影響を与えました。すなわち、育成システムが作られた背景には、コミュニティ(共同体)ごとに異なるサッカーのスタイルを全国的に統一するという目的もあります。
ドイツ協会の育成システムの狙いは、「才能ある選手をトップレベルに引き上げ、ドイツ代表に育て上げる」という点にあります。そのためにスカウトの方法や育成プログラムを全国的に統一し、ドイツ協会が各州の協会と共同して育成を行っています。ドイツは連邦制で各州の独立性が強いため、ドイツ協会も各州の意向を大事にしています。
ドイツの人口は約8,000万人で、子供の数は約180万人と言われています。そのうちの3〜5%がサッカーをしており、例えば11歳と12歳のカテゴリーにおける才能ある子供の数は9,000〜15,000人と見積もられています。ドイツ協会は国内にある約27,000のサッカークラブから選抜された11〜17歳の子供達(約22,000人)を390カ所の拠点に振り分け、5つのカテゴリーに分けて指導を行っています。390カ所という数字は拠点までの距離が片道20キロ以内(ドイツでは車で約10分の距離)という設定に由来しています。各拠点の各カテゴリーに3人のコーチが配置されるため、一つのカテゴリーだけで約1,200人、全国では約6,000人のコーチが必要になります。また、その他にコーディネーターと呼ばれる「コーチの指導者」が29人います。ドイツ協会はこのシステムの維持に年間13億5千万円もの巨費を投じています。

【W杯に向けたドイツの取り組み:クラブの試み】
クラブにおける育成方法については、シャルケという有名なクラブ(ブンデスリーガ1部)を例に挙げます。このクラブは1904年に創立され、オランダ国境近くのゲルゼンキルヘンという街にあります。ちなみに、この街は2006年W杯の会場になっています。シャルケは2000年欧州選手権でドイツ代表が1次リーグ敗退を喫した頃から不振が続き、さらに選手の市場価格が高騰したため、有能な選手を若いうちに獲得し、特別待遇するようになりました。具体的には、有能な選手を獲得するために27の学校と契約を結び、さらにはホームスタジアムから歩いて5分の学校と提携しています。この学校では、授業が夕方5時まである場合はサッカーの練習時間が短くなってしまうため、シャルケの選手は体育や芸術の時間にサッカーの練習をしても良いことになっています。
中小クラブの育成方法としては、LRアーレン(ブンデスリーガ2部)という小さなクラブをご紹介します。このクラブは施設面および経済面の理由で最初からリーグのタイトル争いを諦めています。その代わりにクラブの経営者からコーチまでのスタッフ全員が「子供達を育てるクラブになりたい」という哲学を持って指導を行っています。彼らが最も重視しているのはチームスピリットであり、それは戦術的・技術的・肉体的な意味でのチームスピリットだけではなく、人間的・社会的な意味でのチームスピリットも含まれます。その指導においてコーチや周りのスタッフが重要な役割を果たしています。

【ジーコの反論】
日本代表監督のジーコはドイツ型の育成方法に反対しています。ドイツが先述のような育成を行うことで、「ドイツから狼が消える」とも語っています。ジーコは、「人には教えられないことがある」、「爆発的な才能は育てられない」と主張しており、「自分一人で身に付けたものには高い価値がある」と考えています。その背景には、ジーコ自身も教えられて育った人間ではなく、ブラジルにはジーコのような才能が着実に開花している現実があります。

【スポーツを教えるということ】
スポーツを教えるということは、「覚える」、「わかる」、「思いつく」という状態に相手を導くことです。一つの方法として、技術・戦術・栄養・コンディション調整法・休養の大切さ・対戦相手の見方などについて、「いつ、どこで、何を、どのようにすべきか」ということを情報として教えるやり方があります。また、情報としてではなく、考え方として教える方法もあります。
教える側には落とし穴がいくつかあります。その1つとしては安易なランク付けがあります。また、平面的な発想や思考に陥りがちです。我々の思考・行動・反省は立体的に複雑に絡み合っているはずですが、教える際には平面的に教えてしまいがちです。このような落とし穴に陥ることなく、教える相手とやり取りすることが教える側の大きな課題です。

【サッカーは戦争】
サッカーは戦争だと言われます。それは実際の試合が熾烈を極めるからだけではなく、その試合を通じてあらゆることが行われるからです。間もなく行われるイランでの日本戦でも、出せる金は全て出すでしょうし、できる妨害は全てするでしょう。それはまさに戦争と同じで、その国の生死が今度のサッカーの試合にかかっていると言っても過言ではありません。

【最後に】
スポーツ選手に必要なことには、困難を切り抜ける能力・忍耐力・集中力・諦めない姿勢・自立した考え方などがありますが、これらをどのように身に付けさせるかが大事です。
現代社会は個人の生活・時間・思考が重視される時代ですが、スポーツを通じて新しい共同体が生まれています。大事なのはその共同体の哲学であり、それを構成する指導者・生徒・親・経営者などに何を求めていくかです。そして、その哲学を実践する方法論があるかどうかが極めて大事です。また、共同体の理想を現実のものにするためには、外からの作用である「教育」と内からの作用である「学習」が必要です。これから先の皆様の働きが、新潟だけにとどまらず日本のスポーツを変える原動力になると信じています。ご静聴ありがとうございました。
 
 
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