新春サッカーサロン報告書  
  . 〜こんなにスゴい人が新潟にいるんです 2〜  
  【NAMARA】トレーナーキャンプっていうのはないんですか?
【萩本氏】選手と違ってオフは手を休ませていられますからね。私たちの仕事は「選手を精神的にも身体的に、いかにいい状態で送り出せるか」です。ですからキャンプの中で一緒にやっていく――というキャンプ自体が私たちの『キャンプ』にもなるわけです。
【NAMARA】トレーナーは自分が疲れたら自分でマッサージしたりするんですか? あるいはトレーナー同士でマッサージし合ったり。
【萩本氏】技術の確認という意味で、行なうことはありますよ。
【NAMARA】サッカーはするんですか?
【萩本氏】サッカーは、全てが好きですね。観るのも、語るのも、プレーするのも。
そういえば、トレーナーでスパイクを持っているのは僕だけですね。
【NAMARA】ちなみに先程、話を聞いたら、試合形式の練習に参加したりして。
【萩本氏】試合の前日は練習があまり重くないので、最後に選手達と監督・スタッフとかで2タッチゲームというのをやるんです。ピッチ半面で「ボールに3回触る」あるいは「ボールが止まる」などしたら相手ゴールになるというルールで、5〜8分ハーフでリラックスしたムードで楽しみます。
【NAMARA】大活躍らしいですね! 「萩本さんが点を獲ると次の試合に勝つ」みたいなムードありますか?
【萩本氏】そうですね。昨年は16得点しました。リーグ戦が13得点で、天皇杯が3得点。私が得点した翌日の結果を見ると、J2では44節の大宮戦も含めて『9勝4分け』。そんな感じなんです。報道陣たちもシャットアウトしてリラックスした雰囲気でやりますから、いつもとは違うプレイ(森田の高さを活かしたディフェンダーぶりや、木寺のダイビングヘッドゴールなど)が見られますね。
【NAMARA】見てみたいですねー!!
ところで、萩本さんから見て「いい筋肉してるなぁ」っていう選手は誰ですか?
【萩本氏】平岡コーチにも訊かれたことがあります。それは“選手の評価”ということとは違うのですが――。スプリンターのように爆発的な力を出すような筋肉とは違いますが、筋肉自体に触っていること自体が「気持ちイイ」ような、そんな筋肉の持ち主っていうのはいますよ。
【NAMARA】誰ですか?
【萩本氏】安英学なんですよ。瞬発的な力を出すのには硬い筋肉(速筋)、持久的な力が必要な場面には柔らかい筋肉(遅筋)が働くのです。サッカーは様々な動きが求められるので、色々な筋肉が必要とされるわけです。彼の場合は持久走や柔軟性もトップレベルですし、バランスよく持ち合わせているんでしょうね。
【NAMARA】萩本さんはゴン(中山雅史/磐田)に似ていると言われませんか?
【萩本氏】ありますね。彼は同学年なので、頑張ってもらいたいですね。
【NAMARA】山口選手も同世代ですか?
【萩本氏】1学年下ですね。同学年には、井原正巳や武田修宏などがいます。あと、まだ現役を続けているのがジャイアンツの清原和博と桑田真澄。

<会場、大爆笑>

【NAMARA】
萩本さんは鍼治療もされるんですよね?
【萩本氏】はい。選手の身体をケアする仕事というと、あん摩・マッサージ・指圧師,鍼灸師,柔道整復師,理学療法士などがあります。トレーナーというと鍼灸マッサージ師や柔道整復師が主になりますね。
【NAMARA】萩本さんは、どうしてこの道に進まれたんですか?
【萩本氏】まだ進路も定まっていない高3の時、86年メキシコW杯をアジア1次予選からずっと観ていたんです。最終予選まで勝ち進む日本代表を、駆け出しの一サポーターとして観ていて、「選手としては無理だけれど、トレーナーとしてなら可能性はあるかな」と思ったんです。当時は、現在のジェフ市原の前身である古河電工の妻木トレーナーが代表チームと兼任していました。
攻撃の中心であったMF・木村和司選手(日産自動車/横浜マリノス)が、伝説的なフリーキックを決めた韓国戦などがあった予選です。
【NAMARA】萩本さんは、いろんな所でサッカーを観ているんですよね? 
サポーターとして観始めたのはいつ頃ですか?
【萩本氏】82年のスペインW杯をテレビで観たのが最初で、徐々にスタジアムに足を運ぶようになっていきました。W杯はその後、86年メキシコ大会,90年イタリア大会,94年米国大会,98年フランス大会と、4つの大会で予選から応援していました。初めて海外で応援しようとしたのが、87年に行われたソウルオリンピック・アジア最終予選。ホーム&アウェーでの4ケ国リーグ戦の初戦が、9月のバンコク(タイ)で行なわれた時です。
W杯アジア予選で初めてアウェーゲームに足を運んだのは、イタリア大会予選です。89年の5月21日の香港戦を観に行ったのですが、その後の天安門事件に繋がってゆく北京での民主化運動に対しての中国政府の弾圧への、香港市民100万人規模の抗議デモがあってたせいで、試合が一日延期されたために観ることができなかったんです。その5ヶ月後にはアジア最終予選がシンガポールで集中開催されたのですが、横山謙三監督率いるチームは、あろうことか1次予選で敗退していたために日本代表も私もシンガポールに足を踏み入れることはできませんでした。その4年後にはアメリカW杯予選の、いわゆる『ドーハの悲劇』を現場で目撃しました。
【NAMARA】W杯の本戦を観たいという人は多いでしょうけれど、予選から各地へ観に行こうという人はなかなかいないんじゃないですか?
【萩本氏】そうでしょうね。でも開催国じゃなければ本戦に出られないわけですから。その頃は日本でW杯が開かれるなんて夢にも思っていなかったですし、「予選に行かなければ日本代表を見ることができない」とも思っていました。その他にもU−17や女子W杯など、色々なゲームを見に行きました。
【NAMARA】だからカルトキングになれるんですね。たくさん見てきた中で一番印象に残っているのはどの試合ですか?
【萩本氏】95年にエクアドルで開催されたU−17世界選手権でしょうか。その時、私は少年サッカーのトレーナーとして米国に行っていたのですが、そこからエクアドルまで足を伸ばしました。結果は1次リーグ敗退だったのですが、その時の中心選手が小野(現フェイエノールト),稲本(現フラム),酒井(現浦和),新井場(現鹿島),古賀(現名古屋)たちで、高原(現HSV)はいまタイリーグで活躍している田中洋明(当時ヴェルディ川崎ユース)の控え選手でした。
【NAMARA】「こいつは伸びるな」って言われていた選手は誰でしたか?
【萩本氏】小野はすでに中央でも注目されていました。ですからその後は、静岡まで高校選手権予選を観に行ったり、96年の国体にも行きました。でも、その時はそれだけを観に行ったわけではないんですよ。まず、神戸での日本×チュニジアを観た後、前述の国体を広島で観て、そのまま福岡へ移動してアビスパの練習場で知り合いでもある都並選手に会って、その夜には鳥栖でフューチャーズ×東京ガスの試合を観て、車を九州に置いて在来線で下関へ移動して、そこからフェリーで釜山に渡って、列車でソウルの隣の水原に行って、U−19アジア選手権を見ました。

(会場一斉に)すごいですねー!!

その当時のU−19監督は山本正邦(現五輪代表監督)さんで、宮本(現ガンバ)がキャプテンでした。中村俊輔(現レッジーナ)が高3で抜擢された大会を観て、それからウルサンという所へ行って、アジアカップウィナーズ選手権のウルサンヒュンデ×ベルマーレ平塚の試合を観たんです。当時、東京ガスを応援していた関係で、平塚に移籍していた関浩二選手と知り合いでして、試合後に植田朝日君とかと彼の部屋へ行ったんですが、その相部屋だったのが反町選手だったんです。そこで初めて監督に会いました。
【NAMARA】運命的ですねー! 2002年シーズンに再会した時、監督は覚えてましたか?
【萩本氏】会ったのはその時だけじゃなかったので――。フランスW杯時は、スカパー!で「試合以外のW杯を楽しむ」みたいな番組『W杯だけのための500時間/青海ライブ』という番組をやっていたのですが、ゲストに反町氏が来たんです。スペイン留学前後だったと思います。その後、2002年の1月22日に再会したというわけです。
【NAMARA】さすがに毎回記憶が鮮明ですねー! 久しぶりの再会で、監督は何か言いましたか?
【萩本氏】多くは話しませんでしたが、私が「こんな形で再びお会いできるとは思いませんでした」と言ったら、「いいことだよ」って返してくれましたね。
【NAMARA】いいパフォーマンスですねー! どうですか、初めて韓国で会った時から、監督は変わらないですか?
【萩本氏】少し太りましたよね。就任会見(2001年)なんかを見ると「若かったなぁ」と思いますけど。
 
 
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